Page 182 - Revival of faith -text final
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するというよりは、その人の存在の状態なんです。では聖書による完
成とは何でしょう。神様の戒めに完全に従うということです。それで
も少しはっきりしないところがありますね。それについては何といえ
るでしょう。すべての知っている罪に勝利するということです。知ら
ないことについては、神様はそれを罪とはみなされません。私たちが
すべての知っている罪に勝利するならば、神様はその人を完全とみ
なされます。

〈編集者注:メッセージの中で、「知らないことについては、神様
は罪とはみなされません」とあります。たとえば、ルターやカルバン
は、土曜安息日のことを知らなかったのですが、彼らの知り得た真
理によって義とされたのです。しかしダビデは、「私を隠れたとがか
ら解き放ってください」(詩篇19:12)と祈っています。自分も知ら
なかった心の奥底にある罪も、それが天国を失うことになるような
ものであれば、神様は、罪をあらわにして下さり、その罪に勝利させ
てくださるのだと思います〉

私たちが神様の戒めに従うとき、私たちがすべての知っている罪
に勝利するならば、神様はその人を完全と見なされます。そして、私
たちが神様の戒めに従うという、私たちがそのすべてに従おうが、
全然従わなかろうが、その戒めというのは一つです。それは何です
か。神を愛し、隣人を愛するということです。まず神様を愛さなくて
はいけません。そうするに、神様は隣人に対する愛を私たちに供給し
てくださいます。私たちのうちには、そのような愛はありません。私た
ちは受けなくてはいけないのです。
『祝福の山』という本を読まれたならば、義と愛について、著者は次
のように言っています。「義は愛である」と・・・。それを読んだ、私は
理解しました。はっきりとわかりました。私たちが神様の愛について

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