Page 17 - Yamamoto Family -text final
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のゆえに赦し受けいれてくださる、十字架がどれほ
ど素晴らしいか、ということを語りました。そのような
メッセージを聞いて、逆に感動して下さる教会員の
方もおられましたが、私の心は、何かが違う、どこか
自分の信仰はおかしい、という思いがしていました。
そのような中で、私は、結局問題は、自分の自我、
自己愛、利己主義の心なのだということに気づかさ
れていきました。「自分を捨てて」、「いっさいを捨て
て」イエス様に従っていかなければならないのに、
自分の自我は死んでいない、心の奥底では、生き生
きと生きているということが分かってきました。
あるとき、家内とけんかしているとき、「なんで俺
の言うことを聞かないんだ! 俺に従え!」と怒鳴って
いました。その自分を見て、「ああ、これが自分の本
性なんだ。自分は、謙遜やへりくだりを人に教えなが
ら、自分自身は人の上に立って人を支配することを
願っているんだ」と思いました。
そのような経験の中で、少しずつ、新生、聖霊のバ
プテスマ、自己放棄、によって、心が全く新しくされな
悲惨と絶望の果てに 17
ど素晴らしいか、ということを語りました。そのような
メッセージを聞いて、逆に感動して下さる教会員の
方もおられましたが、私の心は、何かが違う、どこか
自分の信仰はおかしい、という思いがしていました。
そのような中で、私は、結局問題は、自分の自我、
自己愛、利己主義の心なのだということに気づかさ
れていきました。「自分を捨てて」、「いっさいを捨て
て」イエス様に従っていかなければならないのに、
自分の自我は死んでいない、心の奥底では、生き生
きと生きているということが分かってきました。
あるとき、家内とけんかしているとき、「なんで俺
の言うことを聞かないんだ! 俺に従え!」と怒鳴って
いました。その自分を見て、「ああ、これが自分の本
性なんだ。自分は、謙遜やへりくだりを人に教えなが
ら、自分自身は人の上に立って人を支配することを
願っているんだ」と思いました。
そのような経験の中で、少しずつ、新生、聖霊のバ
プテスマ、自己放棄、によって、心が全く新しくされな
悲惨と絶望の果てに 17