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ている」と言ったとします。そういった状態はどのようにして起こるの
でしょうか。イエス様をどのようにして心に受け入れるのでしょうか。
私たち多くのクリスチャンが、イエス様の言葉に同意して受け入れる
ならば、イエス様を受け入れたと考えています。それは、本当ではな
いのです。全く真理からかけ離れています。

では、私たちは、どのようにしてイエス様を受け入れるのでしょう
か。イエス様の条件を受け入れなければなりません。戒めを受け入
れなければなりません。それに従って生きなければなりません。そう
することによって、私たちはイエス様を受け入れたということができ
るのです。

多くのクリスチャンは、イエス様の教えを、ただ、知的に同意して
受け入れているにすぎません。そして、心も、生活も、人生も、すべて
を捧げることもなく、ただ自分の都合のいいだけその教えに従おう
としているのです。そういった、自分の好みというものが優先されて
しまうと、妥協ということが起こってしまいます。

イエス様を個人的救い主として受け入れるとは、私たちの人生の
主として、王様として受け入れるということなのです。

よく、「信仰による義」と言う言葉が使われますね。それはどうい
う意味でしょうか。信仰によって、私たちが義なる者になるというこ
とですね。何に対する信仰ですか?十字架のイエス様の死に対す
る信仰」、と言う人たちもいるでしょう。それはどういう意味でしょう
か? 信仰によって私たちが義とされる、義なる者となるというのは
どういう意味なのでしょうか。できるだけ単純に説明したいと思いま
す。子供でも理解できる方法をとりたいと思います。

私たちは義人ではないのです。義なる要素を私たちは持っていま
せん。私たちは自分の中で、どんな小さな義も作り出すことはできま
せん。それは不可能なのです。義を作り出す能力を私たちは持って
おりません。

46│信仰のリバイバル
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