Page 176 - Revival of faith -text final
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い。10人が待っていましたが、5人が賢くて、5人は愚かな乙女でし
た。全員、手に明りを持っていました。手には同じものを持っていた
のです。この明りは何を表しているのでしょうか? 神様のみ言葉で
す。ランプは神様の言葉を表していたんです。愚かな乙女も、賢い乙
女も、全員神の言葉を手に持っていたんです。

その明りを用意してくれたのは誰でしょうか。自分で用意したんで
すか。違います。これは、結婚式のに、用意されたもので、結婚式の
当事者が、彼らに手渡して、花婿を迎えさせようとしたのです。教会員
であれば、誰でも、聖書を手に持っています。バプテスマを受けてい
ます。聖書を勉強します。聖書の教理を理解しています。全員聖書を
手に持っているわけです。賢い人も、愚かな人も。しかし、この召しが
やってくる、「花婿だ、花婿がやってきた」と言われるに、全員目を覚
まします。ところが、ランプの中に、油が入っていないんです。

マタイ25章のたとえ話を注意深く読みますと、そこに、賢い乙女
と、愚かな乙女の違いが書かれています。見かけは一緒です。全員
神の言葉、聖書を持っています。キリストの再臨を待っています。と
ころが、日曜休業令がやって来た、全員が目を覚ますのです。そのあ
ることに気がつきます。賢い乙女たちは、脇に油を持っていたので
す。別の器を持っていて、そこに油を蓄えていたのです。ランプの油
が切れたに、予備の油をつぎ足すことができたわけです。

すべての再臨教会員は聖書を持っています。教師によって与えら
れています。牧師から与えられています。教会学校の先生方から与
えられたもの、教会の長老方から用意されたもの、しかし、それだけ
では十分ではないのです。自分で油を用意しなければいけません。
それは、聖霊との個人的な経験です。召しがやって来た、自分で聖
霊の油をつぎ足さなければなりません。

それはどういうことか、わかりますか。愚かな乙女たちは、「あな
たの油を分けてください」と言いました。賢い乙女たちは、「できま

176│信仰のリバイバル
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