Page 54 - Revival of faith -text final
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義とは、義なるものになっていることです。では、罪とはなんでしょう
か。罪とは不法である、つまり、律法を犯すことであると書かれてい
るのです。次にローマ3:20を見ます。「律法を行うことによっては、
すべての人間は神の前に義とせられないからである」とあります。
今、いろんな言葉の定義を行っているんですけれども、義とは何で
すか。神の戒めを守り行うことです。罪とは何ですか。神の律法を
破ることです。犯すことです。しかし、パウロは、神の律法を行うこと
によっては、だれも神の前に義とされないと言っています。ある個所
では、義とは神の律法を守ることだと言い、一方では神の律法を守
ることではだれも義とされないと言っています。どういうことでしょ
うか? このような聖句を、どのようにして、きちんとまとめて理解で
きるのでしょうか。混乱してきましたか? 律法を行うことでは、誰も
義とされないとあります。エレミヤ23:6に、このように書かれていま
す。「その日ユダは救いを得、イスラエルは安らかにおる。その名は
『主はわれわれの正義』ととなえられる」。
「主はわれわれの正義」という言葉があります。救われる者たち
は、このように呼ばれるようになるんです。「主はわれわれの正義」
と。私たちが救われて天国に行くときに、真珠の門を通っていく、新
しい名前で呼ばれるようになるんです。その名前とは、「主はわれわ
れの正義」という名前であります。宇宙の誰かが私に尋ねたとしま
す。「どうやってここに来ることができたのですか」。次のように答え
るでしょう。「主なる神様が私たちの義であります」。主とはエホバ
のことですね。エホバなる、創造主なる神が私の義となられました。
そうするときに、私たちが天国へ行くのをとどめるものはいなくなる
わけです。エレミヤ33:16。「その日、ユダは救いを得、エルサレム
は安らかにおる。その名は『主はわれわれの義』ととなえられる」。
エルサレム全体が「主はわれらの義」ととなえられるとあります。個
人的にも私たちは、「主はわれわれの正義」と呼ばれ、神の教会全体
54│信仰のリバイバル
か。罪とは不法である、つまり、律法を犯すことであると書かれてい
るのです。次にローマ3:20を見ます。「律法を行うことによっては、
すべての人間は神の前に義とせられないからである」とあります。
今、いろんな言葉の定義を行っているんですけれども、義とは何で
すか。神の戒めを守り行うことです。罪とは何ですか。神の律法を
破ることです。犯すことです。しかし、パウロは、神の律法を行うこと
によっては、だれも神の前に義とされないと言っています。ある個所
では、義とは神の律法を守ることだと言い、一方では神の律法を守
ることではだれも義とされないと言っています。どういうことでしょ
うか? このような聖句を、どのようにして、きちんとまとめて理解で
きるのでしょうか。混乱してきましたか? 律法を行うことでは、誰も
義とされないとあります。エレミヤ23:6に、このように書かれていま
す。「その日ユダは救いを得、イスラエルは安らかにおる。その名は
『主はわれわれの正義』ととなえられる」。
「主はわれわれの正義」という言葉があります。救われる者たち
は、このように呼ばれるようになるんです。「主はわれわれの正義」
と。私たちが救われて天国に行くときに、真珠の門を通っていく、新
しい名前で呼ばれるようになるんです。その名前とは、「主はわれわ
れの正義」という名前であります。宇宙の誰かが私に尋ねたとしま
す。「どうやってここに来ることができたのですか」。次のように答え
るでしょう。「主なる神様が私たちの義であります」。主とはエホバ
のことですね。エホバなる、創造主なる神が私の義となられました。
そうするときに、私たちが天国へ行くのをとどめるものはいなくなる
わけです。エレミヤ33:16。「その日、ユダは救いを得、エルサレム
は安らかにおる。その名は『主はわれわれの義』ととなえられる」。
エルサレム全体が「主はわれらの義」ととなえられるとあります。個
人的にも私たちは、「主はわれわれの正義」と呼ばれ、神の教会全体
54│信仰のリバイバル