Page 57 - Revival of faith -text final
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れを試みるなら、必ず失敗します。それは不可能だからです。ではどの
ようにして、義なる者となるのでしょうか。イエス様に心に入っていた
だくことによってです。誘惑がやってきたとき、私の自我、罪深い性質
もそれに反応します。私たちは外からも、中からも誘惑を覚えるわけ
です。その、イエス様を私の義として心に入っていただくのです。そう
するときに、私のエゴ、自我はしずめられていきます。
韓国に行ったら、「自分たちは永遠に救われた」と称している人た
ちがいるそうです。「もう救いは決まっているんだから、悔い改めは
必要ない。2000年前に私の罪の問題は十字架上で解決された」、
と言います。「もう、未来に犯すであろう罪も解決済みだ、イエス様が
2000年前に十字架上で死なれた故に、すべて解決済みだ。それな
のに悔い改めの祈りをやり続けるなら、それは不信仰だ」というわけ
ですね。「もう悔い改める必要はない、永遠に救われているんだか
ら」。このような言い方は、信仰による義の、本当の意味を理解してい
ないのです。信仰によってイエス様を受け入れるというのは、イエス様
が私たちの心のうちに創造の力を発揮して下さることなのです。
花を見るに、何が見えますか。そこに、創造の力を見ることができ
るのです。動物を見る、何が見えますか。創造の力が見えるのです。
心臓の音を感じるに何を見ますか。そこに創造の力を見ることがで
きます。すべてにおいて、創造の力を信じるということです。それを
表明するんですね。どのようにして? 安息日を守ることによってで
す。文字どおり1日24間の6日間で、この天地万物が創造されたと、
私は心から信じています。そしてすべての物が神様の言葉によって
造られました。神様の言葉には創造の力があるのです。ですから、
私たちが神様の約束を受け入れる、神様のみ言葉を受け入れる、そ
のみ言葉が私どもの心の中で力を発揮します。それを経験するなら
ばそれこそが永遠の福音なのです。これこそが信仰による義なので
す。
主は我らの義│57
ようにして、義なる者となるのでしょうか。イエス様に心に入っていた
だくことによってです。誘惑がやってきたとき、私の自我、罪深い性質
もそれに反応します。私たちは外からも、中からも誘惑を覚えるわけ
です。その、イエス様を私の義として心に入っていただくのです。そう
するときに、私のエゴ、自我はしずめられていきます。
韓国に行ったら、「自分たちは永遠に救われた」と称している人た
ちがいるそうです。「もう救いは決まっているんだから、悔い改めは
必要ない。2000年前に私の罪の問題は十字架上で解決された」、
と言います。「もう、未来に犯すであろう罪も解決済みだ、イエス様が
2000年前に十字架上で死なれた故に、すべて解決済みだ。それな
のに悔い改めの祈りをやり続けるなら、それは不信仰だ」というわけ
ですね。「もう悔い改める必要はない、永遠に救われているんだか
ら」。このような言い方は、信仰による義の、本当の意味を理解してい
ないのです。信仰によってイエス様を受け入れるというのは、イエス様
が私たちの心のうちに創造の力を発揮して下さることなのです。
花を見るに、何が見えますか。そこに、創造の力を見ることができ
るのです。動物を見る、何が見えますか。創造の力が見えるのです。
心臓の音を感じるに何を見ますか。そこに創造の力を見ることがで
きます。すべてにおいて、創造の力を信じるということです。それを
表明するんですね。どのようにして? 安息日を守ることによってで
す。文字どおり1日24間の6日間で、この天地万物が創造されたと、
私は心から信じています。そしてすべての物が神様の言葉によって
造られました。神様の言葉には創造の力があるのです。ですから、
私たちが神様の約束を受け入れる、神様のみ言葉を受け入れる、そ
のみ言葉が私どもの心の中で力を発揮します。それを経験するなら
ばそれこそが永遠の福音なのです。これこそが信仰による義なので
す。
主は我らの義│57