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構な年数ですね。これはすなわち、1888年の「信仰による義」の
メッセージなのです。そして、永遠の福音を説くことに努めてきまし
た。そして、永遠の福音を説けば説くほど、自分のエゴがどんどん小
さくなってきました。私という人間がどんどん小さい者になっていく
ということですね。私たちが、なかなか立派な行いをしていたとして
も、々つまずいたり、には、大失敗をしたりして、転ぶことがありま
す。そして、過去の立派な行いが帳消しになってしまうことがありま
す。そういう経験をしたことがありますか。私だけでしょうか。義なる
者になるということは、イエス様に心に入っていただいて、イエス様
に心の中で生きていただくことなのです。

義は賜物か服従の結果か

ローマ人への手紙3章24節をお読みします。「彼らは、価なしに、
神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされ
るのである」。義というのは、すべて神様からの賜物であります。次
にローマ5:17をお読みします。「もし、ひとりの罪過によって、その
ひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれる
ばかりの恵みと賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリ
ストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではない
か」。義の賜物についてここに書かれていますけれども、先に進みま
す。イザヤ61:10 「わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽
しむ。主がわたしに救いの衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿
が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである」

旧約聖書のこの箇所においても、義の衣をまとわせてくださる、そ
れが賜物だと書かれていますね。

しかし、問題があります。律法に対する服従によって義とされるの
だとするならば、義が賜物であるという概念をどうしたらよいでしょ

60│信仰のリバイバル
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