Page 125 - RememberMe!
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守ろうとする努力」が、律法主義の定義です。このような定義に注
目すると、何種類かの明らかな事実を把握することができます。

第一に、キリストの助けなしに、自分の力だけで神の戒めを守ろ
うとすることが律法主義なら、安息日に礼拝する人を律法主義者
扱いしておいて、日曜日に礼拝する人は律法主義者ではないという
主張を成立させることはできません。

第二に、律法主義は、行為によってではなく、心の動機によって
決定されます。自分自身の努力で、自らの舌を治めようとする人は
律法主義者であって、反対に、キリストの助けにより頼んで、言葉を
慎むようにする聖徒は律法主義者ではありません。これらふたつの
相違点は、心の動機にあり、外に現れる行為ではないことが明らか
です。

従って外面の行為を見て、キリストの存在がない、律法主義だ、
とむやみに批判することは、非常に危険なのです。人間の目では、
他人の心の動機を正確に判断することはできません。

さらに大きな問題は、「キリストの助けなしに、自分の力で神の
戒めを守ろうとする努力」を律法主義と定義せずに、どんな動機に
よるかは関係なく、ただ神の御心を行おうとするその行為をながめ
て、それは律法主義だと規定する、曲解された概念がキリスト教界
にはびこっている事実です。このような立場によれば、エノクやダニ
エル、ヨセフのような、罪に勝利するキリスト者の生涯は、すべて律
法主義になり、神の御心を行おうとする努力そのものが律法主義

安息日と「信仰による義」 125
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