Page 123 - RememberMe!
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救われるという信仰が、不服従の言い訳であったり、また現実を認
めようとしない、現実逃避のひとつの方便となっていたりして、品性
の足りなさの隠れ蓑に使われているのではないでしょうか。

聖書が伝える信仰とは、神とその御子であるイエス・キリストを
全面的に信頼することを意味します。実はこれさえも、心に働かれ
る聖霊の御業なしには不可能です。信仰は、悔い改める魂に与えら
れる神の賜物であり、大きな奇跡です。そして信仰は、神の言葉に
従って生きるように導く、魂に与えられる能力です。従って、神の御
旨にかなう行為を導くことができない、昨今むやみに説かれている
信仰は、聖書の教える信仰とは言えません。それは、出処の全く違
う、異質な何かなのです。

信仰と道徳性は、同じ硬貨の両面です。真の信仰があれば、道
徳的にならざるを得ません。イエスを個人的な救い主として受け
入れると告白する信仰が、その告白者の生涯を、主人であるキリス
トへの完全な従順に導くことができないなら、それは無力な信仰
であり、最終的にそのような信仰の持ち主は、滅亡に陥るほかあり
ません。

信じる者は、当然のように神の言葉に服従するはずです。あらゆ
る神学の知識や心理学の用語を用いながら、結局、信仰の従順に
導かない、服従する力を与えることのできない信仰は、それらがま
がい物である明白な証拠です。

人が神様に服従するには、不可能を可能にする、神様からの信

安息日と「信仰による義」 123
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