Page 45 - RememberMe!
P. 45
徳律(十戒)を廃されなかった。彼が来られた目的は、この中のどれ
を廃止するか、といったものではなかった。・・・この律法の全部
が、全世代、もろもろの人類に有効である」(John Wesley, “Upon Our

Lord’s Sermon on the Mount”, Discourse 5, in Works, Vol. 5(1829 ed.),
pp.311,312)。

ある人たちは、十戒の他の九つの戒めは依然として有効で、安息
日の戒めだけが廃止されたと言いますが、イエスの言葉とは余りに
も矛盾する主張です。イエスは、律法の一点一画も変更することは
できないから(マタイ5:18)、神の公義(罪の値は死)によって、人
類の代わりに十字架で死なれたのでした。イエスの十字架の死は、
神の律法が大切なものであり、それに違反することは死を宣告され
ることであり、私たちはこの律法を守らなければならないことを表
しています。ところが、多くの人は、十字架を、今後は罪を犯しても
よい「免許証」のように思ったり、または罪を犯した後に「苦しい良
心を慰めてくれる道具」のように扱っています。

イエスが十字架で死なれたから、私たちはもう戒めを守らなくて
も、ただ信じれば(?)救いを受けられると思う人が、かなり多いよ
うに見受けられます。

もちろん 、律 法を行うことによって救 いを得ることはできませ
ん。使徒パウロは、律法を養育掛にたとえました。養育掛(養育担
当者)は、先生へと導いてくれる役目を果たします。それは、「私が

新約聖書と安息日 45
   40   41   42   43   44   45   46   47   48   49   50