Page 46 - RememberMe!
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罪を犯した」ことを悟るように導き、「私は罪人」であることを自覚
させ、「もろもろの罪から救う者」(マタイ1:21)であられる救い主の
もとへと導くのです。律法がなければ、罪の自覚は生じません。

ところで、キリストのみもとへ行った罪人は、その後どうなるので
しょうか?救いを満喫しながら、自らの魂に「食え、飲め、楽しめ」
と言えばよいのでしょうか?キリストの犠牲を通して、神様との新し
い契約関係に入った人は、神の律法が心に刻まれ、戒めを守ること
が、生活の自然な一部となるのです。妻を愛するなら、「今日は不
倫しないようにしよう」と決心しなくてもよいように、その原則、す
なわち愛の律法が心に刻まれると、神の御旨に従って生きるように
なるのです。

安息日について論じてみると、多くの人が、自分が日曜礼拝を行
っていることは「信仰の従順」で、安息日遵守者が行っていること
は「律法主義」である、という偏見を抱いている場合がしばしばあ
ります。もし、<安息日遵守=律法主義=行いによる義>であるなら
ば、<姦淫しないこと=律法主義=行いによる義>とならないでしょ
うか?それなら、律法主義にならないために、今夜から罪を犯しな
がら生きる方がよいでしょうか?神の御旨に従って心を尽くすこと
が律法主義だと言うなら、「私は救われているから、自分勝手に生
きよう」と言うことが、正常なクリスチャンの生き方になってしまう
のではないでしょうか?そのようなことは、決してないはずです。

ある人は、「安息日遵守はユダヤ教の律法主義にならうことだ」

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