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キリスト教はハッピーでいること、喜びの宗教じゃないか。そんな苦
しい道を選ぶ必要はないじゃないか!」。

しかし、イエス様は言われました。「だれでもわたしについてきた
いと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従って
きなさい」(マタイ16:24)と。イエス様に従うということは、自分を
捨てるということなのです。自分の意志も、自分の欲望も否定するこ
とです。世に対する私たちの願望を捨てることです。何でも一番にな
りたいという願望を捨てることです。イエス様こそが、真のキリスト
者の模範です。あのような暗い状態で、イエス様は十字架にかから
れました。そして、恐るべき苦しみを味わわれました。その時、誰も
突き破ることのできない闇でもって、父なる神様は十字架を覆われ
ました。

この時の、イエス様の選択肢は何だったでしょうか。自分は失敗
した、ということを認めて、家に帰るべきだったのでしょうか。あるい
は、最後まで耐え忍ぶべきだったのでしょうか。そこには、勝利のし
るしは何も見えず、彼の任務はうまくいかなかったかのように感じら
れました。彼の犠牲を、本当に正しく評価し、感謝している人間を、
そのとき見いだすことはできなかったのです。

そのような中にあって、イエス様は、父なる神様の言葉を思い出さ
れたのです。そして、人類を信頼することにされたのです。信仰によっ
て、イエス様は未来をご覧になりました。信仰によって、イエス様は、
ペテロが一日に3千人を導くのをご覧になったのです。あまりに暗く
て、イエス様は、墓の向こうを見通すことができませんでした。つま
り、十字架にかかっておられる時、自分がよみがえるということを、
見通すことができなかったのです。

しかし、十字架上でイエス様は、ヨハネを信用することにされまし
た。疑い深いトマスを、信じることを選ばれました。ピリポやアンデレ

138│信仰のリバイバル
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