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捧げられることはありません。そこで、罪を赦されるためには、聖所
の外庭で供え物を捧げるべきです。つまり、再び犠牲の羊を聖所に
持って来て、祭壇の前で殺し、新しく生まれる経験をもう一度しなけ
ればなりません。というのは、ある信者たちは、悔い改めて新しく生
まれた経験を忘れ、信仰を捨てるようなことをしているためです。
もちろん今回は、最初の時のように長い時間かかったり、長い告
白は必要ないかもしれません。しかし、主の十字架のもとで、自分
が犯した罪のゆえに苦しまれる、小羊イエスを深く見つめ、もう一度
回心しなければなりません。十字架の前に行かない限り、誰も罪の
真の姿を見て悲しむことはありません。十字架のもとに行こうとしな
い人が、罪を悲しむことはありえないのです。悔い改めて再回心した
後で、彼は聖所に戻ることが出来ます。次のことを覚えておきましょ
う。罪はいつでも、私たちを神様から引き離します。罪人が完全に
悔改めて罪を捨て去っていないのに、キリストの義が、なおも彼をお
おってくれるとは、聖所は教えていません。
その事を理解するために、私自身の経験をお話ししたいと思い
ます。
今から20年ほど前のことです。私と家内は、自分たちのラオデキ
ヤ状態の信仰を深く悟り、悩んだあげく、心から罪を悔い改めて、も
う一度主のみ前に全的に屈服する経験を主から頂きました。そのよ
うな、主が与えて下さった真の悔い改めの経験をした後のことです。
最初の数か月間、私たちは、神様と共に歩み、聖化の階段をのぼっ
ていく喜びに満たされていました。それは聖所の制度でいうと、外
庭の経験を通り、聖所へ入る経験をしたことだと言えました。
それからある日、家内と一緒に信徒の家を訪れた時、私たち夫婦
102 │ 聖所‐福音の道しるべ
の外庭で供え物を捧げるべきです。つまり、再び犠牲の羊を聖所に
持って来て、祭壇の前で殺し、新しく生まれる経験をもう一度しなけ
ればなりません。というのは、ある信者たちは、悔い改めて新しく生
まれた経験を忘れ、信仰を捨てるようなことをしているためです。
もちろん今回は、最初の時のように長い時間かかったり、長い告
白は必要ないかもしれません。しかし、主の十字架のもとで、自分
が犯した罪のゆえに苦しまれる、小羊イエスを深く見つめ、もう一度
回心しなければなりません。十字架の前に行かない限り、誰も罪の
真の姿を見て悲しむことはありません。十字架のもとに行こうとしな
い人が、罪を悲しむことはありえないのです。悔い改めて再回心した
後で、彼は聖所に戻ることが出来ます。次のことを覚えておきましょ
う。罪はいつでも、私たちを神様から引き離します。罪人が完全に
悔改めて罪を捨て去っていないのに、キリストの義が、なおも彼をお
おってくれるとは、聖所は教えていません。
その事を理解するために、私自身の経験をお話ししたいと思い
ます。
今から20年ほど前のことです。私と家内は、自分たちのラオデキ
ヤ状態の信仰を深く悟り、悩んだあげく、心から罪を悔い改めて、も
う一度主のみ前に全的に屈服する経験を主から頂きました。そのよ
うな、主が与えて下さった真の悔い改めの経験をした後のことです。
最初の数か月間、私たちは、神様と共に歩み、聖化の階段をのぼっ
ていく喜びに満たされていました。それは聖所の制度でいうと、外
庭の経験を通り、聖所へ入る経験をしたことだと言えました。
それからある日、家内と一緒に信徒の家を訪れた時、私たち夫婦
102 │ 聖所‐福音の道しるべ