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なのでした。罪のない方が、罪の代価を支払われたゆえに、赦しが
可能となったのです。
「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。
それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためである」(Ⅱコリ
ント5:21)。
十字架は、神様の律法を廃棄するものではありませんでした。罪
を赦すために、律法そのものを廃棄して、罪を見逃すことができる
のであれば、その方が簡単なことです。しかし、「罪の支払う報酬」(
ローマ6:23)としての死を、キリストが受けられたということは、律
法の要求が厳然として存在し、律法が廃棄されるものではないこと
を、強力に物語っているのです。
ところで、罪人が小羊の頭に手を置いて罪を告白し、いけにえを
殺したなら、祭司は「これで良し!赦されたから家に帰ってよろしい」
と宣言するのでしょうか。これで、罪人の赦しの過程がすべて済んだ
のでしょうか?聖書は、祭司がその羊の血をとって聖所に入り、垂れ
幕の前で、七たび注ぎ、彼のためにあがないの祈りが捧げられること
によって、あがなわれると明示しています。
「祭司が彼のためにその罪のあがないをするならば、彼はゆるさ
れるであろう」(レビ4:26、35;5:10、16;6:7)
あがないの働きは、十字架で完結していないことは明白です。あ
がないは、十字架で始まりましたが、すべてが完了したのではありま
せん。祭司の「あがないの祈り」「罪のあがない」、つまり、イエス様
が復活後、昇天なさり、天の聖所に入り、執り成しの務めを行ってお
られることは、十字架と同様に重要であり、救いの計画の一局面な
のです。
36 │ 聖所‐福音の道しるべ
可能となったのです。
「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。
それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためである」(Ⅱコリ
ント5:21)。
十字架は、神様の律法を廃棄するものではありませんでした。罪
を赦すために、律法そのものを廃棄して、罪を見逃すことができる
のであれば、その方が簡単なことです。しかし、「罪の支払う報酬」(
ローマ6:23)としての死を、キリストが受けられたということは、律
法の要求が厳然として存在し、律法が廃棄されるものではないこと
を、強力に物語っているのです。
ところで、罪人が小羊の頭に手を置いて罪を告白し、いけにえを
殺したなら、祭司は「これで良し!赦されたから家に帰ってよろしい」
と宣言するのでしょうか。これで、罪人の赦しの過程がすべて済んだ
のでしょうか?聖書は、祭司がその羊の血をとって聖所に入り、垂れ
幕の前で、七たび注ぎ、彼のためにあがないの祈りが捧げられること
によって、あがなわれると明示しています。
「祭司が彼のためにその罪のあがないをするならば、彼はゆるさ
れるであろう」(レビ4:26、35;5:10、16;6:7)
あがないの働きは、十字架で完結していないことは明白です。あ
がないは、十字架で始まりましたが、すべてが完了したのではありま
せん。祭司の「あがないの祈り」「罪のあがない」、つまり、イエス様
が復活後、昇天なさり、天の聖所に入り、執り成しの務めを行ってお
られることは、十字架と同様に重要であり、救いの計画の一局面な
のです。
36 │ 聖所‐福音の道しるべ