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らの信仰を持ちました。
私たちはよく、アブラハムを「信仰の父」と呼びますが、果たして

私たちは、アブラハムの信仰を引き継いでいる者でしょうか。もし私
たちが、アブラハムのような信仰、すなわち、ヤコブの手紙が語って
いるような(ヤコブ2:21)、行為によって証明される信仰、神様の
命令であるなら、何ものも惜しまず捧げ尽くし、神様に従う信仰、愛
によって働く信仰を持っているなら、私たちは、間違いなくアブラハ
ムの子孫であり、彼を「信仰の父」と呼ぶことができるのです。その
ような人は、もろもろの罪に勝利して余りある、真の信仰者と言うこ
とができます。このアブラハムの信仰に立つ人こそ、イエス・キリスト
に属する人であり、神様のイスラエル、すなわち、真の神様の教会で
あると呼ばれるのです。

アブラハムが、モリヤの山を目指して出発する朝、妻サラを起こ
さなかったことには、アブラハムの複雑な思いがあったことでしょ
う。イサクはモリヤの山に登る途中で、父に「火とたきぎとはありま
すが、燔祭の小羊はどこにありますか?」と尋ねました。その時の、
アブラハムの心境を、世の父親たちは、想像出来るでしょうか?「子
よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」というアブラ
ハムの答えの中に、私たちは信仰とは何であるかを知ることができ
ます。信仰というのは「どうして?なぜ?」と尋ねません。信仰という
のは神様のみ言葉に、全心全霊で応答し、心と思いと、命さえもか
けて、「はい」と答えることです。

アブラハムは、ついにモリヤ山の頂上へ着き、息子イサクの手を取
って、神様がお前を燔祭として捧げるように命じられたのだ、と告げ
ます。その時イサクは、全く素直に、父の言葉に従います。イサクは、

46 │ 聖所‐福音の道しるべ
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