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書は書いています。「ソロモンはエルサレムのモリアの山に主の宮を
建てることを始めた」(歴代志下3:1)。
アブラハムの経験は、信仰とは、従順であり、自己犠牲であること
を表しています。
神様は予表と約束を通して「アブラハムに・・・良い知らせを、予
告したのである」(ガラテヤ3:8)。アブラハムは、信仰を持って、来
たるべき救い主を待ちました。イサクの代わりに燔祭として捧げられ
た雄羊は、私たちの身代わりとして犠牲になられた、神様のみ子を
表していました。人間が神様の律法を犯し、死ぬべき運命に陥った
時、天の父なる神様は、イエス・キリストを見つめて、罪人に「彼を救
って、墓に下ることを免れさせよ、わたしはすでにあがないしろを得
た」(ヨブ33:24)と言われました。
神様がアブラハムに、息子を殺すように命令されたのは、彼の信
仰を試すと同時に、彼の心に、福音を現実的に強く印象づけるため
のものでした。その恐ろしい試練の暗黒の数日間の苦悩は、人類の
救いのために払われた、無限の神様の大きな犠牲を、アブラハム
が、自分の経験を通して学ぶために、神様が許されたものでした。自
分の息子を捧げることほど、アブラハムの心を苦しめた試練はあり
ませんでした。
そのように神様は、ご自身のみ子を、苦しみと屈辱の十字架に渡
されました。堕落した人類を救うために、栄光の王は命を投げ出さ
れたのでした。このことは、神様の無限の愛と同情心についての、決
定的な証拠となるものです。
アブラハムに要求された犠牲は、彼自身や、また後代の人々への
益のためだけではありませんでした。それは、天と他の諸世界の罪
48 │ 聖所‐福音の道しるべ
建てることを始めた」(歴代志下3:1)。
アブラハムの経験は、信仰とは、従順であり、自己犠牲であること
を表しています。
神様は予表と約束を通して「アブラハムに・・・良い知らせを、予
告したのである」(ガラテヤ3:8)。アブラハムは、信仰を持って、来
たるべき救い主を待ちました。イサクの代わりに燔祭として捧げられ
た雄羊は、私たちの身代わりとして犠牲になられた、神様のみ子を
表していました。人間が神様の律法を犯し、死ぬべき運命に陥った
時、天の父なる神様は、イエス・キリストを見つめて、罪人に「彼を救
って、墓に下ることを免れさせよ、わたしはすでにあがないしろを得
た」(ヨブ33:24)と言われました。
神様がアブラハムに、息子を殺すように命令されたのは、彼の信
仰を試すと同時に、彼の心に、福音を現実的に強く印象づけるため
のものでした。その恐ろしい試練の暗黒の数日間の苦悩は、人類の
救いのために払われた、無限の神様の大きな犠牲を、アブラハム
が、自分の経験を通して学ぶために、神様が許されたものでした。自
分の息子を捧げることほど、アブラハムの心を苦しめた試練はあり
ませんでした。
そのように神様は、ご自身のみ子を、苦しみと屈辱の十字架に渡
されました。堕落した人類を救うために、栄光の王は命を投げ出さ
れたのでした。このことは、神様の無限の愛と同情心についての、決
定的な証拠となるものです。
アブラハムに要求された犠牲は、彼自身や、また後代の人々への
益のためだけではありませんでした。それは、天と他の諸世界の罪
48 │ 聖所‐福音の道しるべ