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が必要なのです。私たちの熱心や努力に、私たちを救う力はありま
せんが、自我が砕かれ、意志を屈服させることなしには、誰も救いを
保っていくことはできません。それゆえ、救いは聖所の外庭で終わる
のではなく、聖所を通り、さらに至聖所の中に入って終結するものな
のです。イエス様の十字架は、聖所の外庭の経験を私たちに提供す
るものです。イエス様の地上でのお働きは、すべて終わり完成しまし
たが、救いの計画の全体が終了したのではありません。そのことを
私たちに教えているのが聖所制度なのです。
聖書には「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得
るためである」(ヨハネ3:16)とあります。救いは神様からの無償の
賜物ですが、この賜物を受け取るには、私たちの側の「信じる」とい
うことが伴わなければなりません。そして、神様を信じるとは神様を
愛することで、神様を愛する者は神様の戒めを守るのです(ヨハネ
14:15,21参照)。
使 徒パウロは、救いの 経 験をこのように説 明しました。「わたし
の愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順
であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、い
っそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至
らせるのは神であって、それは神のよしとされるところでだからであ
る」(ピリピ2:12、13)。
ある人は、聖所の儀式制度は、最終的に天において行われる裁き
について説明しているに過ぎないと言います。しかしこの裁きの過
程において、神様が、罪に勝利し続ける自分の民を印される時には、
地上に住んでいる者たちの、協力と献身がなければ、何もおできに
第5章 │ 83
せんが、自我が砕かれ、意志を屈服させることなしには、誰も救いを
保っていくことはできません。それゆえ、救いは聖所の外庭で終わる
のではなく、聖所を通り、さらに至聖所の中に入って終結するものな
のです。イエス様の十字架は、聖所の外庭の経験を私たちに提供す
るものです。イエス様の地上でのお働きは、すべて終わり完成しまし
たが、救いの計画の全体が終了したのではありません。そのことを
私たちに教えているのが聖所制度なのです。
聖書には「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得
るためである」(ヨハネ3:16)とあります。救いは神様からの無償の
賜物ですが、この賜物を受け取るには、私たちの側の「信じる」とい
うことが伴わなければなりません。そして、神様を信じるとは神様を
愛することで、神様を愛する者は神様の戒めを守るのです(ヨハネ
14:15,21参照)。
使 徒パウロは、救いの 経 験をこのように説 明しました。「わたし
の愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順
であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、い
っそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至
らせるのは神であって、それは神のよしとされるところでだからであ
る」(ピリピ2:12、13)。
ある人は、聖所の儀式制度は、最終的に天において行われる裁き
について説明しているに過ぎないと言います。しかしこの裁きの過
程において、神様が、罪に勝利し続ける自分の民を印される時には、
地上に住んでいる者たちの、協力と献身がなければ、何もおできに
第5章 │ 83