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ならないことを、私たちは理解しなければなりません。
私たちは決して、自分の力や能力に頼って、自己過信に陥ってはな
りません。また、どんな誘惑がきても大丈夫だ、などと思ってはなり
ません。救い主を受け入れた人々は、いくら徹底的に改心したとして
も、自分たちが救われていると言ったり感じたりしてもよいと教えら
れるべきではありません。これは惑わしです。すべての人が希望と信
仰を持つように教えられるべきですが、私たちが自身をキリストに捧
げ、キリストが私たちを受け入れて下さったことを知っていても、私た
ちは誘惑の手から逃れているわけではありません。試みに耐える者
だけが命の冠を授けられるのです。
私たちは「救われた」と言って自己満足し、そこから向上すること
を止めてはいけません。このような考えを抱く時、目を覚まして祈り、
さらに高い標準を目指して進むための、熱意が消え去ってしまうの
です。キリストが再臨され、私たちが神様の都の門をくぐるまでは、
清められた舌がこの言葉を語ることはありません。私たちはみ国に
受け入れていただいた時、永遠の救いを与えてくださった神様と小
羊とに、栄光を帰することになるでしょう。私たちの力や努力でな
く、すべてが、天の父なる神様の恵みによることを、告白するように
なるでしょう。
聖化とは、義認の継続的な経験だということが出来ます。神様は
人が義とされる前に、まず、心の完全な服従を要求なさいます。そし
て、人が義認を保持するためには、継続的に服従し、愛によって働く
活動的で生きた信仰を通して、その魂を純潔にしなければなりませ
ん。人が信仰によって義とされるためには、信仰によって、すべての
愛情と衝動をコントロールできる地点にまで到達していなければな
84 │ 聖所‐福音の道しるべ
私たちは決して、自分の力や能力に頼って、自己過信に陥ってはな
りません。また、どんな誘惑がきても大丈夫だ、などと思ってはなり
ません。救い主を受け入れた人々は、いくら徹底的に改心したとして
も、自分たちが救われていると言ったり感じたりしてもよいと教えら
れるべきではありません。これは惑わしです。すべての人が希望と信
仰を持つように教えられるべきですが、私たちが自身をキリストに捧
げ、キリストが私たちを受け入れて下さったことを知っていても、私た
ちは誘惑の手から逃れているわけではありません。試みに耐える者
だけが命の冠を授けられるのです。
私たちは「救われた」と言って自己満足し、そこから向上すること
を止めてはいけません。このような考えを抱く時、目を覚まして祈り、
さらに高い標準を目指して進むための、熱意が消え去ってしまうの
です。キリストが再臨され、私たちが神様の都の門をくぐるまでは、
清められた舌がこの言葉を語ることはありません。私たちはみ国に
受け入れていただいた時、永遠の救いを与えてくださった神様と小
羊とに、栄光を帰することになるでしょう。私たちの力や努力でな
く、すべてが、天の父なる神様の恵みによることを、告白するように
なるでしょう。
聖化とは、義認の継続的な経験だということが出来ます。神様は
人が義とされる前に、まず、心の完全な服従を要求なさいます。そし
て、人が義認を保持するためには、継続的に服従し、愛によって働く
活動的で生きた信仰を通して、その魂を純潔にしなければなりませ
ん。人が信仰によって義とされるためには、信仰によって、すべての
愛情と衝動をコントロールできる地点にまで到達していなければな
84 │ 聖所‐福音の道しるべ