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いました。「ゲッセマネ」とは「油をしぼる所」という意味です。イエ
ス様は、私たちに聖霊を与えるために、私たちの罪を負われ、油がし
ぼられるように、苦難の道を歩まれました。
神様が、民にご自身を表される時には、光はいつも神様の臨在の
象徴でした。神様はご自身のみ言葉を通して、私たちのうちに住まわ
れます。従って光は神様の言葉、または真理を象徴しています。聖所
には窓がなく、外部からの光線は入らないようになっていました。燭
台が唯一の光源でした。そのように、私たちの魂には、真の光であ
る神様の真理以外、外部からの光が入ってはならないのです。他の
人間的な哲学や理論では、私たちを救うことはできません。
純 金 の 燭 台 の 光 だけ が、聖 所 の中を照らすようになっていまし
た。真っ暗な部屋の中で、たとえマッチ一本でも、火をつければ、た
ちまち闇は消え去ります。光はどんなに小さくても、闇はその光に勝
つことはできません。太陽が昇ると、世界を覆っていた闇は追い払
われます。光が当たると、木々や塀の下のあらゆる暗がりは逃げ去り
ます。
イエス様は「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)と言われまし
た。イエス様の光が私たちの心に入ってくると、すべての誤りと罪は
追い払われます。私たちの魂は、この真理の光であるみ言葉によっ
て清くされなければなりません(Ⅰペテロ1:22参照)。
イエス様の光が私たちの内にある時、つまり、イエス様が私たちの
内に宿られる時、私たちは光の子となることが出来ます。イエス様が
私たちの内に宿られるということは、彼が歩まれたように、み言葉と
戒めに従うことです。
「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛の
88 │ 聖所‐福音の道しるべ
ス様は、私たちに聖霊を与えるために、私たちの罪を負われ、油がし
ぼられるように、苦難の道を歩まれました。
神様が、民にご自身を表される時には、光はいつも神様の臨在の
象徴でした。神様はご自身のみ言葉を通して、私たちのうちに住まわ
れます。従って光は神様の言葉、または真理を象徴しています。聖所
には窓がなく、外部からの光線は入らないようになっていました。燭
台が唯一の光源でした。そのように、私たちの魂には、真の光であ
る神様の真理以外、外部からの光が入ってはならないのです。他の
人間的な哲学や理論では、私たちを救うことはできません。
純 金 の 燭 台 の 光 だけ が、聖 所 の中を照らすようになっていまし
た。真っ暗な部屋の中で、たとえマッチ一本でも、火をつければ、た
ちまち闇は消え去ります。光はどんなに小さくても、闇はその光に勝
つことはできません。太陽が昇ると、世界を覆っていた闇は追い払
われます。光が当たると、木々や塀の下のあらゆる暗がりは逃げ去り
ます。
イエス様は「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)と言われまし
た。イエス様の光が私たちの心に入ってくると、すべての誤りと罪は
追い払われます。私たちの魂は、この真理の光であるみ言葉によっ
て清くされなければなりません(Ⅰペテロ1:22参照)。
イエス様の光が私たちの内にある時、つまり、イエス様が私たちの
内に宿られる時、私たちは光の子となることが出来ます。イエス様が
私たちの内に宿られるということは、彼が歩まれたように、み言葉と
戒めに従うことです。
「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛の
88 │ 聖所‐福音の道しるべ