Page 111 - RememberMe!
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日(Easter-Sunday)」に変更して守ろうとする試みが露骨になってき
ました。すると、これに反対する東方の教会との間に大きな衝突を
もたらしたのです。これがいわゆる、「復活節-日曜日論争(Easter-
Sunday Controversy)」と呼ばれるものです(Irenaeus, Litter to Victor
in Eusebius, Ecclesiastical History v. 24. 2-17)。
「復活節-日曜日」に反対したのは、主に使徒ヨハネが死ぬま
で奉仕していた小アジア地域の諸教会であって、ヨハネの弟子で、
殉教者となったサマーや、教会の監督ポリクラップ(Polycrap, A.D
155)、エぺソの監督ポリクラテス(Po-lycrtes. A.D 130-196)などが
いました。
論争は続きますが、ユダヤ人に対するローマ人の憎悪によって、
時代的に有利な立場に立つようになったローマ教会は、長い間遵
守されてきた安息日と、受難記念日であった過越祭の代わりに、週
ごとの「日曜日」と、年ごとの「復活節-日曜日」を、キリスト教の礼
拝日、また祝祭日として確立していきました。そして西暦321年、ロ
ーマ皇帝コンスタンティヌス(Constantine)の主導で開催された、歴
史的なニケア宗教会議の勅令において、各監督たちに送った書簡
を通じて、東方の諸教会もユダヤ人に同調しないで、ローマ教会と
同じ日を復活節の記念日とするよう命じたことにより、長年にわたる
「復活節-日曜日論争」に、ローマ教会が勝利したことが公認され
たのでした。
このようにして、キリスト教最大の祝祭日、英語では「イースタ
キリスト教会に入ってきた異教の風習イースター、クリスマス 111
ました。すると、これに反対する東方の教会との間に大きな衝突を
もたらしたのです。これがいわゆる、「復活節-日曜日論争(Easter-
Sunday Controversy)」と呼ばれるものです(Irenaeus, Litter to Victor
in Eusebius, Ecclesiastical History v. 24. 2-17)。
「復活節-日曜日」に反対したのは、主に使徒ヨハネが死ぬま
で奉仕していた小アジア地域の諸教会であって、ヨハネの弟子で、
殉教者となったサマーや、教会の監督ポリクラップ(Polycrap, A.D
155)、エぺソの監督ポリクラテス(Po-lycrtes. A.D 130-196)などが
いました。
論争は続きますが、ユダヤ人に対するローマ人の憎悪によって、
時代的に有利な立場に立つようになったローマ教会は、長い間遵
守されてきた安息日と、受難記念日であった過越祭の代わりに、週
ごとの「日曜日」と、年ごとの「復活節-日曜日」を、キリスト教の礼
拝日、また祝祭日として確立していきました。そして西暦321年、ロ
ーマ皇帝コンスタンティヌス(Constantine)の主導で開催された、歴
史的なニケア宗教会議の勅令において、各監督たちに送った書簡
を通じて、東方の諸教会もユダヤ人に同調しないで、ローマ教会と
同じ日を復活節の記念日とするよう命じたことにより、長年にわたる
「復活節-日曜日論争」に、ローマ教会が勝利したことが公認され
たのでした。
このようにして、キリスト教最大の祝祭日、英語では「イースタ
キリスト教会に入ってきた異教の風習イースター、クリスマス 111