Page 83 - RememberMe!
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されることはありません。パウロがここで、十戒のひとつの戒めが
十字架の影であり、それが私たちに敵対すると言っていないこと
は、明白です。聖書でただの一度も、道徳律である十戒が、「きたる
べきものの影」として描写されたことはありません。
そうであったなら、「きたるべきものの影」は何であって、「本体
はキリストにある」という言葉の意味は何なのでしょう?同じ内容
を扱った他の箇所を見つけて、その答えを探すことが最も確実な解
釈を与えてくれます。
「いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、
そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに
引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに
近づいて来る者たちを、全う〔完全に〕することはできないのであ
る。・・・なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることがで
きないからである」(へブル10:1、4)。
コロサイ人への手紙の「きたるべきものの影」が何であるかを、へ
ブル人への手紙では同じギリシア語である「影(skia)」「将来の(ton
mellonton)」を用いて正確に説明していますが、きたるべきものの
影である律法は、やがておいでになり、十字架によって死なれるキ
リストを象徴する、いけにえの供え物を殺してささげた旧約の祭り
の制度を意味します。それを通常、古い契約と呼びますが、「はじ
めの契約」(へブル9:1)または「初めのもの」(へブル10:9)とも
表現されています。
新約聖書と安息日 83
十字架の影であり、それが私たちに敵対すると言っていないこと
は、明白です。聖書でただの一度も、道徳律である十戒が、「きたる
べきものの影」として描写されたことはありません。
そうであったなら、「きたるべきものの影」は何であって、「本体
はキリストにある」という言葉の意味は何なのでしょう?同じ内容
を扱った他の箇所を見つけて、その答えを探すことが最も確実な解
釈を与えてくれます。
「いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、
そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに
引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに
近づいて来る者たちを、全う〔完全に〕することはできないのであ
る。・・・なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることがで
きないからである」(へブル10:1、4)。
コロサイ人への手紙の「きたるべきものの影」が何であるかを、へ
ブル人への手紙では同じギリシア語である「影(skia)」「将来の(ton
mellonton)」を用いて正確に説明していますが、きたるべきものの
影である律法は、やがておいでになり、十字架によって死なれるキ
リストを象徴する、いけにえの供え物を殺してささげた旧約の祭り
の制度を意味します。それを通常、古い契約と呼びますが、「はじ
めの契約」(へブル9:1)または「初めのもの」(へブル10:9)とも
表現されています。
新約聖書と安息日 83