Page 85 - RememberMe!
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無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなか
ったからである。ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいること
ができる。それは、「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせるこ
とはしないと誓ったように」と言われているとおりである。しかも、みわざは
世の初めに、でき上がっていた。すなわち、聖書のある箇所で、七日目のこ
とについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われて
おり、またここで「、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言わ
れている。そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているの
であり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいる
ことをしなかったのであるから、神は、あらためて、ある日を「きょう」として
定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたな
ら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言
われたのである。もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとに
なって、ほかの日のことについて語られたはずはない。こいうわけで、安息
日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の
安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを
休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努
力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、
落ちて行く者が出るかもしれない(」ヘブル4:1~11)。

パウロの書簡の中で、安息日の神学的な意味を最もよく知るこ
とができる部分です。ただし、ヘブル人への手紙4章1節~11節の

新約聖書と安息日 85
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