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罪を清める力はありません。一度も罪を犯したことのないキリスト
の血だけが、全ての罪を洗い清める泉になるのです。おきてを定め
られた方の、罪のない血が、私たちの罪の代わりに流されることで、
私たちはもう一度、新しい命を生きることが出来るようにされたので
す。その体験が、次の聖歌によく表されています。

「尊き泉あり そのうちより インマヌエルの血ぞあふれ流る 
罪に悩む者 くぐり入らば 汚れは洗われ しみは消されん」  
       (聖歌428番・讃美歌239番と同じメロディー)

贖罪の供え物は、その皮の内側と、内臓についている脂肪だけ切
り取って祭壇で焼き、その残りは、陣営の外に運び出して火で焼き尽
くされました。脂肪は悪人と罪を象徴するものであったので、このよ
うにされたのです。「悪しき者は滅び、主の敵は煙のように消えうせ
る」(詩篇37:20;英語訳)。

そして世の終わりになって、罪を焼き尽くさなかった悪者たちは、
新しいエルサレムの陣営の外で、火と硫黄の池に投げ込まれてしま
うことが、聖書に預言されています(黙示録20章参照)。

2、罪祭から学ぶ教訓

罪祭についての学びの中で、私たちが覚えなければならないこと
は、祭司またはイスラエルの全会衆が罪を犯した時は、雄牛を連れ
て来なければならなかったことです(レビ4:3~7:レビ4:13、14)。
雄牛はいけにえの中で一番高価なものでした。それは、指導者の罪
は、神様の前に、全会衆が罪を犯したのと同じに見なされるほど、重
大であるということを表していました。従って教会の指導者たちが背
教すれば、それに従った民は全員、共に滅ぼされたのです。

56 │ 聖所‐福音の道しるべ
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